5月23日(木)

山谷の路上生活者を助ける牧師のドキュメンタリーを仕事中に見た。
南千住を僕は度々散歩しに行く事が多いのだが、山谷地区とは反対の汐入という隅田川方向にも路上生活者が多い。あの場所には場所としての記憶が一切ない為、というのも
10年くらい前から着工された都市開発により住民は居なくなり、建物だけが残った。その頃は死の街という印象を受けたが2,3年前には多くの住居などの建物が取り壊され
何の記憶さえも持たない街と様変わりしてしまった。その様な訳でこの場所は存在の記憶までも消し去ってしまいそうで、長い間いると、何故か充足感が与えられてしまう。さら地の状態を見ても、そこにはどのような建物が建ってたかなんて思い出せない。原因の一つに外輪郊外化された風景の無特徴性が上げられる。かつてはどこの村落にもあった”場所の意識”が郊外化によって剥奪されてしまった。そして我々人間にも無特徴性の意識が浸透してきた。つまり場所が匿名化され、人間同士の関係も匿名化された結果、お互いを人間として認識できなくなったのではないか?そのような理由で仕方なく山谷に仕事を持ってやって来た人間も不況という状況から自らも匿名化され、何も認識する事が出来ず飢えと寒さによってこの場所に飲み込まれていくのではないか。
だから一刻も早く人生をやり直したいと考える人はこんなところにいちゃいけない。もっと生気に溢れる街で再出発を計らなければならない。人間としてではなく、風景として人生を終われるのは幸せなのかもしれないと一瞬思ったが、そんな訳はない。理由はどうあれ、過程はどうあれ、そんなものが幸せな訳がない。当事者になってみないと分かる訳もない。

社会的に死んでしまった場所、いやこれから誕生すると言ったら良いのか?とにかく希望も何も持てず、不幸な人間をここは受け入れるようだ。まるでタルコフスキーの「ストーカー」のようである。しかし願いは一切叶わないが。「Gummo」の世界の方がもう少し近いのかもしれない。